私は気づいた。自分は実は、自分自身を抑え込んでいるのだ。
これは、外部刺激を受けて興奮し衝動が湧いたときに気づいた。そうした影響を受けているとわかった瞬間、条件反射のように、その生じた衝動を抑え込み、自分の感情をなおも定常状態に保とうとしていた。
これはかなり昔の考えの影響だと思う。私はまだ繭の中にいるのだと考えていた。以前、学校にいた頃、あの土地の環境は自分にとって有害だと思い、環境と自分のより深い部分との相互作用を隔離することを選んだ。いま私はここに来て、周囲の環境は少し良くなったと感じるし、周囲の環境もより自由に自分で選べるようになった。だから本当は、もっと心を開いて、真の成長を得るべきなのだ。
けれど、以前の生活が習慣を生んでしまったらしい。外部との接触を恐れ、自分の内面がこの人工的な定常状態から離れることを怖がる。そうして無意識のうちに、この静けさを維持しようとしてしまい、そのせいでこの一年の私は、泥濘のように死んだ静寂の中にいたと言える。
今日ここで、私は気づいた。自分はまだ、繭の中に留まっているのだ。
では、私はどうすればいいのだろう? いまの状況を少しは自覚できたのに、外へ出られない。私はずっと、本当の自分として出ると決めてからでなければ、外の世界に向き合う自信は持てないと思ってきた。でも本当の自分は、さまざまなものに触れ続け、この淀んだ死の静寂を保ったままで、いったいどうやって見つけられるのだろう。たぶんそれが、私の困難だ。
とはいえ確かに、世界に存在する自己は最初から存在しているのではなく、世界との相互作用を通じて、存在しうる自己の形が決まっていく。
しかし私が追い求めている自己は、もっと本質的なものだ。私が私であることの最も根源的な衝動、それを探したいのだ。もちろん、衝動がただ一つの方向にしかないと言いたいわけではない。前へ進みたいという衝動も一種類だけではないはずだ。ただ、人には未来へ向かう宿命があるのだとすれば、その未来の衝動の向かう先を決める、私の下す決断が、私の未来もまた決めるのだ。 だから、私はこの可能性に押し潰されているのかもしれない。
ある方向を選ぶということは、それ自体、別の可能性をいくつか捨てることを意味する。もちろん、別の道を選んだからといって、それらの方向が消えるわけではないこともわかっている。将来また改めて探求することだってできる。それでも、いまこの一歩の選択は、私にとって紛れもない変化だ。脳を変え、未来に経験する方向をふるいにかける。だから私は、この選択によって、別の自分の可能性を失うことへの恐怖を抱くのだろう。
しかし、こう考えると、私が最も恐れているのは、ある方向を選んで進むという、その責任なのだ。私はその選択に伴う責任感そのものを恐れている。
では答えは、実はもう目の前にある。
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